
新たな外出制限。
9月以降、フランスでの感染者の数は増え続け、新たな外出制限が敷かれた10月15日の時点での感染者数は3万人を超えました。
今回の外出制限は夜9時から翌朝の6時にかけてなので、夜の9時になった時点では、もうすでに家へと帰っていなければなりません。
例外として前回と同じように仕事などでどうしてもというときには証明書を持っていることを条件に許された時間外での外出が認められますが、理由なく外出をすると135ユーロ(約1万5千円)の罰金の対象になってしまい、繰り返し違反した場合にはさらに高額な罰則が科せられます。
つづくコロナの中で。。
お店や施設の入り口には消毒薬が設置され、小さな子供を除けば街を行き交う人たちその全てがマスクをしているこの異様な風景にも、もうすっかり見慣れてしまいました。
この外出制限によって仕事ができなくなる人たちに対しては、また国から保証がされるということですが、国の財政としてもすでに良くない状態にあると言われていますし、今の状況は正直とても深刻なのではないかと思います。
相変わらず日々どのこの国でもその日の感染者数がニュースやメディアで取り上げられていますが、実際に苦しめられている人というのは、コロナウィルス自体もさることながら、それが生んだ波紋によって仕事への悪影響、被害を受けている人たちです。
たとえば『いつもよりも売り上げは落ちているけれどこの状況下でもなんとか凌いでいけそう』というのであればゆっくりと何か少しでも状況改善ができる方法を模索しながら吹雪が過ぎるのを待つように時を過ごせば良いのでしょうが、仕事自体を無くしてしまった人たちはやはりこの上なく深刻です。
この状況をものともせず、むしろ売り上げを右肩上がりに上げ続けているようなIT業界などは話が別ですが、そうでなければ大半の経営者たちにとってはコストをかけて人を雇いたいタイミングではないはずです。
フランスは税金が高いこともあって保証が他の国々と比べてとても手厚く、国がコロナ対策のために閉店や営業時間に規制をかける場合には、それによって出る損出や働くことができなくなった分の給料に対して保証がなされますし、万が一失業してしまった場合にでも失業手当てが長い間出るので当面の心配はありません。
移り変わる信頼の置ける場所。
とはいえここでの1番の大きな問題は、このコロナウィルスは一体いつになったら収束するのかということに対して、今の段階では全く目処が立っていないということです。
保証がされるとはいえ、この状況が永続的に続くのなら国の経済的な体力は消耗し続けていくでしょうし、さらに長い目で見ればそれによって将来の年金にさえ影響を及ぼしていくはずです。
いったいどれだけの人が気がついているのかわかりませんが、正社員であるとか年金制度、大きな銀行、さらに言えば国でさえも、これまで『安心』・『絶対』とされてきたようなものに対しての信頼感はこのままでは間違いなく薄れていくように思います。
銀行に預けてあるお金の『価値』は時間と共に目減りしていくし、さらに言えばデジタルゴールドとも呼ばれるビットコインなどの仮想通貨など、お金にとって変わるような『信頼』が出てきたことで将来的に『お金』に対する価値観も今とはだんだんと違った形のものになっていくはずです。
ストレスや不安感の軽減。
こう言ってはなんですが、この長くつづくコロナに対する不安やストレスも、経済的に豊かな人たちにとってはゼロではないにせよ、人生を追い込まれるような大きなものではないはずです。
つまりはこのコロナによる人生を脅かすような問題も、どこの国においてだって経済的に余裕があるのであればかなり軽減できるということは少なからずあると思います。
直接感染による被害がなかった人でもコロナの影響で、もともと切り詰めた生活をしていたのにさらに収入が減ってしまって極度な貧困に陥ってしまったり、あるいは仕事を失ってしまった人たちがたくさんいるはずです。
国よっては保証がまったく受けられないことも珍しくはありませんし、フランスにだってまだきちんとした労働許可証、あるいはビザすらもないような外国人の出稼ぎ労働者たちが大勢いますので、そういった人たちが今、かなり困難な状況に追いやられていることは間違いありません。
そうしたことを考えると、まずはこの状況がどんなに長引いていったとしても、安心して暮らして行けるように、どんな方法でも経済的な不安を最小限にすることがストレスや不安感の直接的な軽減方法になるはずです。
保証された生活。
ただ、ひとつ前々から思っていることがあるのですが、それは『人生において保証がある』というのは、ある見方をした場合、とても不自然なことなのではないかということです。
これまで雇用に労働、それに対する保証、保険そういったものが日本でもフランスでも文化の中で発展してきたことはとても素晴らしいことですし、もちろんそれらは人であるからこそ成し遂げられてきたことです。
けれど少し引いて見てみると、自然界の動物たちは生きる上で通常は常に天敵に襲われる危険があるのがあたりまえですし、たとえば仮にどんな動物も足を怪我したとすればそれは生命の危機に直結する大きな問題になるはずです。
少し極論であると思うので、誰もが賛同できることではないと思いますが、保証されていることに慣れきってしまった『もしもの危険』を想定することを完全に忘れた生活を送り続けていると、ある時、危険を察知して生存する確率が高い道を即座に選ぶ、といった『生き物』としての『直感力』のようなものが鈍ってしまう気がするのです。
今できること。。
今やるべき事はこの現代社会から突然抜け出して動物のように危険に晒されて生きるというような極端な話ではなく、今過ごしている日常からでも何か新しいことに目を向けて『本来、人が生物として持っていた感覚を研ぎ澄ませる』というようなことに意識を向けることです。
もっと具体的に言えば、今、自分自身に何ができるのかを一度深く考え、目標を持って行動、そして挑戦することが何より鋭利で敏感な感覚をもたらせてくれるのではないかと僕は思うのです。
今ほど敏速に情報が得られなかった戦争の時代にだって人は生き、子供を育て、そして今日僕らが生きる時代へとバトンタッチしてきてくれたのですから、きっと僕らにだって未来に希望を持って前進することが出来るはずです。
僕自身、今年になって外出制限が初めて敷かれた時には初めて例にないほどのまとまった時間ができて、どんなことをすれば良いのかということを真剣に考えることが出来ました。
まずはこの先どう生きるにせよ、しっかりとした体力づくりは必要不可欠なので筋力トレーニングを始めたり、このブログもいってみればあまり得意ではない分野への克服のつもりで始めたということがありますし、絵も最近になってようやく、デジタルで描くということへの挑戦をしています。
どれも始めて間もないことなので、それらがいったい将来何かはっきりとした結果に繋がってくれるかはわかりませんが、そんな小さな挑戦によって日々少しだけ前進しているような気になるだけで、もうすでに大きな充実感を感じている自分がいます。
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