The アート論

アングルのグランドオダリスク
アングルのグランドオダリスク ルーヴル美術館

アートって?

ある時、唐突に「アートっていったいなあに?」と聞かれたとしたら、きっと大半の人は答えに詰まってしまうかもしれません。 

なんだか少しかしこまった気分で美術館に行き、無機質な感じのする静かな空間で絵や彫刻に目をやると、やっぱりどこか普段の生活からは少しかけ離れた非日常的な雰囲気を感じる人が多いのではないかと思います。 

「ちょっと奇抜で不思議な感じがして、人の目を引くのが最近のアート作品に多いのはなんとなくわかるけれど。。 言われてみれば『アート』という言葉自体、確かにはっきりとした定義はよくわからないかも。」

英語で言う『アート』(Art)と、日本人がいうところの『芸術』とは、辞書の上では同義でも、感覚的にはまったく同じではないように思います。 ですがとりあえずは細かい言葉の違いには目を向けず、同じものとして話を進めていきますね。

それでは『アート』な感覚を持つこと、あるは再発掘することで、あなたの人生が、より有意義で奥深いものになることを願って、いくつかの例を取り上げながら、少し『アート』について綴ってみようと思います。 

ソクラテス問答 

はるか昔、ソクラテスが時の賢者たちに次々と問を投げかけ、問答をした挙句に彼らの言葉をつまらせたという有名な話がありますが、『アート』というものに対して、もしも次々と「どうして?」を投げかけ続けたとしたら、おそらく最後には『別に存在理由があるわけでもない』というところに落ち着くのではないかと思います。

ですが、そもそも物事が存在するということに、もっというなら僕たち人間が存在することにだって『理由』なんていうものが要でしょうか? 

人が人であると自身で認識し始めたその時から、「なんの為に人は一生を過ごすのだろう?」という、自分の存在に対する問いかけは、どの時代、どの文化においても既に人々の間で幾度となく繰り返しされてきたはずです。 

残念なことに、生産性や発展ばかりを追いかけ続ける現代社会において、『アート』なんてせいぜいお金持ちや成功者の道楽に過ぎない、と考える人もけして少なくはありません。 

ですがビジネス思考でアート作品が一般の人の手にとどかないほどの高値で取引されたと騒がれれば、そう思ってしまう人たちが出てくるのも自然な流れと言えるでしょう。

日本でも1987年にヴィンセント・ヴァン・ゴッホの『ひまわり』を安田火災海上保険(現損保ジャパン日本興亜)が、約53億円で落札した時にはとても騒がれて、『ひまわり』を見るために黒山の人だかりができたと言います。

ただここでひとつ考えておきたいことは、果たして見にきた人たちの一体どれだけが『ひまわり』を見にきたのか?、ということです。 

ゴッホは今では日本人の誰もが知る画家ですが、その超高額の落札で騒がれる以前の日本では、『絵が好きな人なら知っている』程度の認知度だったといいます。

つまりは人々の多くはゴッホの『ひまわり』見にきたのではなく、『53億円の絵を見にきていた』のでは? という話ですね。

アートは高い?

ルーヴル美術館所蔵 三美神
ルーヴル美術館所蔵 三美神 Jean-Jacques PRADIER 1831

便利さを追いかける中で人は『お金』というものを生み出し、物資の流通も人々の生活も『お金』が生まれる以前に比べれば、素晴らしい発展を遂げた世の中になったはずです。 ですが大きな力や光には必ず、それに伴った影が生まれるということもけして忘れてはいけません。

『お金』という、世の中に存在するほとんどの物を数字として換算できてしまいうる魔法のような『力』が落とした影は大きく、それはたとえば数字に換算できないもの(お金にならないもの)を『無駄』や『無意味』として排除してしまうような大きな影です。

誰でも子供の頃は、何の疑問も抱くことなく絵を描いていたはずです。 いつだったか『子供の描く絵はアートではない』という人と府に落ちない討論をした覚えがありますが、アートの根本的なものは、やはり子供が生み出す作品にこそあるのではないかと僕は思います。 

たとえばある雨の日に、外へは遊びに行くことが出来ない子供が部屋で絵を描いていて、気に入ったものが出来上がったからセロハンテープで壁に貼り付ける。 それは誰かに評価されるために描いた絵でもなければ何かご褒美をもらう為に描いたものでもない、子供が自由奔放に描いた絵です。 

そこで僕が感じるのは、描かれた絵だけではなく、その一連の行為と発想、その全てが利害の観念とは全く別なところにある、紛れもない『アート』の若い芽だということです。

ですがある時から先生からの評価や他人の目を気にしなければならなくなるような教育を受けはじめ、子供はそれを境に2度と自由奔放な絵などは描くことが出来なくなってしまう『手錠』をかけられてしまいます。

本来の『アート』とは、決して一部の人たちにしか手の届かない高いところにあるものではありません。 そして絵画やアート作品にだけ許されたものでもなく、感情を持った人間であるなら誰にだって自然に生まれた時から要素として備わっているものです。 

そして何より、これからたとえどんなにAIのテクノロジーが向上して優れた機械やコンピューターが増え続けたとしても、ロボットでは決して持つことが出来ない、僕たち人間だからこそ持てる掛け替えのない宝物でもあります。

日本人のアートの心

日本人は、礼節を重んじ、責任感を持って働き、人に迷惑をかけず秩序を保てる非常に賢く敬愛心を持った民族であると他の国々からは尊敬の念を抱かれています。 

ですがその一方で、Karoushi(過労死)なんていう他の国には同じ意味を持つ言葉すら存在しないことから、外来語として世界中で使われているという異常な側面も同時に持ち合わせているということを、今一度考え直さなくてはいけません。

本当に日本の秩序はバランスよく保たれているのでしょうか?

日本人の多くは数字に換算できることや、はっきりと目に見えるものに関しては他の国には例を見ないほどにとても優秀でいるにも関わらず、それに反して数字に換算できない抽象的なことに対してはどう対処して良いのかがわからなくなってしまう、という節があります。 

そしてそれは、近年もっとも日本人にとっての幸せの在り方を低迷させてきてしまってきている大きな要因の一つだと僕は考えています。

『幸せ』とか『愛』とか、誰もが望み、口にする言葉ほど、実は曖昧で人それぞれにとって意味や形が違うということがあります。 たとえばある人にとっては仕事で成果を出して褒められることが幸せかもしれませんし、またある人にとっては贅沢三昧をすることが最高の幸せかもしれません。

ここで少しあなたに質問です。 たとえばさっきの話に出た子供が描いた絵や、人それぞれの幸せや愛、それらに存在理由が要りますか? ましてや値段が付けられると思いますか? 

今、僕が強く思うのは、世の中の発展がこれから更に進むにつれて、幸せを見失ってしまう人が多くなるような未来であってはならない、ということです。

それにはやはり、あなた自身の幸せの在り方について、人の意見や、形だけの一般常識に流されることなく『自分自身で考える』必要があります。 もっと噛み砕いて言えば、他人や社会に与えられた問題に悩むのではなく、『自分で問題を見つける』ことが何より大切です。

『アート』にはそもそも『答え』などというものは用意されていないので、いくら考えても悩んでも、『答え』にたどり着くことは絶対にありません。 ですが、あなた自身の感性と視点で、見て、悩んで、考えたとき、必ずあなただけの『正解のようなもの』を見つけることができます。

少し『アート』を紐解いてみることで、何者にも捉われることのない自由な心と発想を持ち、どんな時も『人は誰しも幸せになる為にいる』ということを胸の中で疑うことなく信じれるようになることを願って、僕は『アートのある人生』をあなたに提案したいと思います。 

アート作品としての絵とイラストレーションの境目

『アート』といえば絵や彫刻などの立体作品のほか、映像や伝統芸能、音楽や日用品に至るまで本当に幅広く様々なものに対して表現されますが、まずはアート作品としての絵、そしてイラストレーションの違いから例にとってみようと思います。 

『アート作品としての絵』を考えるときに良く話される題材ですが、結論から言うとその境目はとても曖昧でハッキリとした境界線はありません。 

たとえば元々は、ある時代の文化や風習を後世に記し残すための『説明』のために描かれたイラストレーションが、後にその時代の芸術として見直されると言うことはよくありますし、日本の浮世絵だって元々は一般大衆の間で親しまれていたものが一度海外に渡り、『ファインアート』として扱われて、それが逆輸入する形で再度本国である日本で芸術作品として見直されたということもあります。

写真機の誕生を迎えて

ヴァンサン・カッセルとモニカ・ベルッチ
ヴァンサン・カッセルとモニカ・ベルッチ いつだったか地下鉄の広告に使われていたお気に入りの写真

それから『絵』というものを取り上げる時に、切っても切れないのが『写真』の存在ですね。 フランスで19世紀に『写真機』が誕生した時、当時の画家たちの仕事、そして彼らの存在意義に対して大きな問いかけと転機が訪れました。

『写真機』が登場するまでは、もっぱら『目に映るものを正確に描いて人に伝える』ということだったり『有産階級の人たちの肖像画を描く』こと、つまりは情報を的確に伝えるイラストレーションとしての意味合いの強い絵を描くことが主流だった画家たちの仕事に対して、シャッターを押せば寸分の狂いもなく人物や風景を映し出す写真機の登場は、空想上の神々をモチーフにした絵を描く『宗教画』の仕事を除けば、彼らが担っていた仕事の大部分を奪うキッカケになったことは言うまでもありません。

そして1870年代にパリで起こったモネやルノワール、シスレーなどによる『印象派』の画家たちの運動は、それまでは柔らかな筆で自身の筆跡を残すことなく描いていた画家の仕事とは一転して写真では表現することが出来ない、画家だからできる表現を意識した自らの存在を主張するような、力強くも温かい光が溢れるような絵の発表でした。

そしてここで忘れてはいけないのが、仕事として受けた製作ではなかったので、当然ながら彼らは貧しい環境にありながらも自分たちの信念を貫き、行動していたということです。 

その結果、はじめは賛否両論どころか非難ばかりを浴びさせられていたものの、今となっては『画家』と言えば、最初に彼ら印象派の名前が思い浮かび、多くの人の心を揺さぶり続ける作品が今もこうして当時の生きたタッチそのままに世に残されているということには、やはり胸を打たれずにはいられません。

料理と芸術

『料理は芸術』とよく言いますが、料理でいうところのアートとは一体なんでしょうか? 

僕自身がパリで料理の世界に身を置き、生業としてきたという事もあるので『作り手』の視点も踏まえて考察してみたいと思います。

たとえば、ひとり数万円もするような高級懐石料理や、有名シェフがいる星付きのレストランで食べるフランス料理が芸術だとするなら、千円札を出してお釣りが来るような、大衆食堂で食べる美味しいお味噌汁とお新香の付いた日替わり定食は芸術ではないのでしょうか? 

フランスでは職人に贈られる最高位のタイトル、国家最優秀職人章 MOF(Meilleur Ouvrier de France フランスで最高の作品を作る人の意)を持ったパティシエ(菓子職人)のお菓子やケーキも、ブティックで買えばひとつ日本円にして千円ほどで買うことが出来ますが、はたしてそれはアートなのでしょうか?

先ほど異論はあるにしても無垢な子供が描く絵を、僕はアートである思う、という話をしましたが、子供にはまだ卓越した技術があるわけでもないし、人生経験を重ねた事での哲学があるわけでもなく、もちろんまだ未熟です。 ましてやいくら可愛らしい絵だったとしても普通に考えれば値がつくなんていうことも、余程の奇跡が起きない限りはありません。

つまりここで最も重要なことは、『アートの観念』は、品質や値段でもなければ技術力でもない、全く別のところにあるということです。

日本ではよく、同じ作業を長きにわたって何度も何度もくりかえし重ねることで到達すような職人技に対して『芸術の域に達した』という表現をしますが、もしも誰かが「どこぞの老舗の職人の焼く鯛焼きは、もうほっぺたが落ちそうなほどに美味しくて、芸術だ!」なんていう表現をしたとしても、誰にもそれを否定できないはずです。

もうひとつ例を出しましょう。 パリで最も評価の高いミシュランの3つ星が付くレストラン・エピキュール(Epicure)を持つ『オテル・ブリストル』というところがありますが、そこで言われていることに『料理は3割』というのがあります。 

つまりどういうことかと言いますと、料理が3割しかない、ということではなく、『料理を3割としてさらに7割別にやることがある』という意味です。

厳選され、磨き込まれた食器、全てにおいて完璧が目指されたサービス、分厚いワインリストにそれを熟知したソムリエ、きらびやかな内装。 それらの何が欠けたとしてもレストラン・エピキュールは最高の料理を出すレストランとしては成り立ちません。

つまりは最高の食材で最高の料理を作るだけではなく、それに付随する全てのものにも最高を求めた結果、歌に踊り、物語に音楽がある舞台のように、料理一皿としてではなく、総合的な視点で見るものになったと言えると思います。

そしてもうひとつ、料理における芸術がほかの芸術とは一つはっきりと違うのは、そもそもが『食べ物』であるということです。 

つまり、たとえば美術館で見るアート作品やコンサート会場で聴く音楽が無かったとしても、人は生きることが出来ますが、食べ物については流石に無くても良い、とはいきません。

芸術性を求める以前に、まず『生命を維持し、健康を保つ』という絶対的な軸がありますからね。

さあどうでしょう? 料理と芸術、密接な関係があることには間違いないようですが、あなたはどう思いますか?

日本とフランスのアートの捉え方。

僕が今暮らすフランスと、日本とのアートに対する捉え方の違いですが、そもそも培ってきた生活習慣に大きな違いがあるのでお互いの重なるところを探そうとするよりも、違いを楽しんで立体的な見方をできるようにした方がやはり賢いと言えるでしょう。

ということで、また例を挙げますが、フランスと日本の『アート』に対する感覚的な違いを示す、分かりやすいものとして、食器があります。 フランスには美しく洗練されたリモージュの磁器や、クリストフルのフォークやナイフがありますし、日本にも世界に誇る漆(うるし)の碗や、伝統的な焼物もたくさんあります。

それぞれとても素晴らしいものですが、ここでひとつ違いを示すために(互いの甲乙を示すものではなく)日本の『借景』(しゃっけい)の話をしたいと思います。 

日本庭園を造る時、庭園を囲む塀の向こうに見える山々などの風景を配慮して、庭園が自然に溶け込むように造ることを言い、まさに『景色を借りる』ということなのですが、さらに続きがあって、遠くに見える景色から塀、庭園、そして茶の間へ続き、果てにはそこにかけられる掛け軸に至るまでの一連の流れで全てが一体になるようなものが本来の『借景』です。

そしてそこに暮らす人たち、物や家具に茶碗などの食器も例外ではなく、つまりは日本人のいうところの芸術とは、自然の中に己の身を置くという思想の元に成り立っているわけです。

なのでフランスの超高級な食器が芸術作品としてよりも、高度な『クラフト』(工芸品)として扱われるのに対し、日本の名人が手がけた陶芸などは芸術品としての見方がとても強いということがあります。

それはつまり自然との繋がりを大切にする事から食器としての形を借りた『間接的』な芸術作品としての色が濃いということでしょう。

それを思うと、『物にも魂は宿る』という、日本の『八百万の神さま』や『神道』の考えとも大きな関係があるということが想像できますね。

アートの思想を普段の生活に活かせたら 『Art de vivre』

パリの芸術橋
パリの芸術橋 Pont des arts

少し今回は長くなりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。

フランスには、『Art de vivre』(アール・ド・ヴィーヴル)生活の芸術、という言葉があります。 

きっともう、ここまで来れば想像することができるのではないかと思いますが、要するに生活の中にアートを取り入れた生き方をする、ということですね。 

日々忙しい生活に追われていると、ついつい生産性や無駄のない方法を常に探さなければいけないような日常を送ってしまいがちです。 

途中、数字に換算できないものは『無駄』や『無意味』にされてしまう、というくだりがありましたが、本当の幸せは、実は『無駄』や『無意味』にこそ隠れています。

たとえば旅行なんて、見方によってはただの時間とお金の浪費に過ぎません。 

けれどもしもその旅行が2度とはない最高の体験だったとしたら、その価値は数字に表すことが出来ない、一生の大切な思い出になるでしょうし、ましてや無意味であるわけがありませんよね。

それでは、『Art de vivre』  あなたの側にいつもアートがありますように。

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